2020

ジャパンカップ

10数年ぶりに競馬予想をした。

天皇賞でアーモンドアイの走りに感動して、ジャパンカップはこの馬しかない。

コントレイルを外してでアリングタクトの馬単25の一点でいいだろう。95倍。2661倍。

どう考えても、この2点しかない。両方買えば間違いない。が。25の一点勝負。

 

午前中はマンションの総会でその足で新宿の場外馬券売り場に。の予定でいた。

いざ、行く、あまりにも久しぶりで『新宿の場外馬券売り場はまだあるのかな?』などなど。

 

結局行きそびれる。

 

凄いレースだった。騎手ルメールのアーモンドアイに対する信頼。

直線、『さあ、来るなら来い。』先頭に立つ。

 

追うコントレイルとデアリングタクト。差は少し縮まったが横綱相撲。

100メートルゴールが伸びてもこのままだろう。テレビとはいえ久しぶりの競馬観戦。ちょっと興奮。

 

馬券は? 馬単25と決めてたがこればかりは窓口でどう変わるか? これがギャンブルだしまさに直感。  『最初の予想でよかったんだよ。』なのか、変えて正解。は神のみぞ知る。の世界。   

 

たぶん、外れただろう。

 

ただただ、アーモンドアイは強かった。ルメールは凄かった。

 

テレビで過去のレースを流す。俺はハイセイコー世代。

ダービーでハイセイコーが3着に敗れ、確か、タケホープーイチフジイサミの馬券を取った記憶が鮮明に。ハイセイコーの出現が競馬ブームに火をつけた。その後も、オグリキャプ。

ともに裏街道の地方競馬出身で、中央競馬に来て頂点を極めた。

 

スターの出現がブームを呼ぶ。   野球では長嶋、相撲では若貴、ゴルフでは尾崎 

スポーツではまったく見向きもされなかったのが、スターの出現により、脚光をあびる。

 

建築はまさに冬の時代。コーポラテブハウスも同じ。

 

アーモンドアイ。こんな強い牝馬はもう出ないだろう。競馬も今がピーク?。

ファンの層も若者に移り、室外ゲームを謳歌してる。

今の無観客レースが将来の姿にはならないと思いたいが、

わざわざ現地に行くことない。にならなければいいが。

 

全てにおいて、『リアルの価値』。   なぜなら人間毎日がリアルだから。

 

 

:tanno:

学術会議

アメリカの大統領選挙をどう見るのかなー


 

今問われているのは『人間と民主主義』という根源的な事である。

 

たぶん、民主主義が『正しい』という観念で世の中が動いている。ように思える。

本当にそうなの。の時代入ってきた?。

文明の加速度的な進展。人間がついていけないスピード。地球温暖化もそう。

人の頭の上を神が闊歩している。

その神は人間が作ったのに、制御できないモンスターになった。という視点で見ると。。?

今の人間社会と民主主義の間にすごい乖離がある。

 

民主主義も人間が作った制度であり、根底をなす思想である。〔学術会議?〕。

民主主義の劣化が、トランプの7000万という得票数に現れている。

 

建築の世界でも同じである。

インターナショナルスタイルが最後の様式と捉えると、そのあとが出てこない。

ポストモダンなどいろいろあるが様式にならない。長すぎる。

様式という概念すら、発想としておかしいのかな?手法のみで作られた建築。

評論家も必要としない世界。

 

要は政治と学術会議。今の社会はそういう関わりじゃ成立しない。という認識が必要なのかも??。

人間の幸せの原点が正常な民主主義。

『世界平和』という空虚な言葉と同じように『正しい民主主義』。

 

どんなイメージなんだろ

基本的に人間は未熟な動物である。所詮『民主主義』『平和』『平等』などなどは作り得ない。

 

資本主義社会が人間の根源と矛盾あるのに受け入れらる寛容さ〔いい加減さ〕。

もう、それが劣化している。容量を超えた文明の発達について行けない。気持ちが病んでいる。

アメリカの大統領選挙をこんな視点から見ると、理解できる?

もう、人間の本質などはいいのかも。先を見ようなんて思わない。

ユートピアなんて幻想だったんだよ。

 

『本質を生きる』でなく『手法で生きる』人間はできるんだと思う。

 

世界を。日本をどうする。を言わない政治家。学術会議の話と同じ、議論もできない。

考えが違えばクビになる。誰も話さなくなる。

GOtoを政策としてやっといて、コロナにかかったら自己責任。大臣が言った言葉。

 

これって政治なのかな?    身を削って働く医療従事者、心身とも極限なんだろう。原発のときと同じ。

たぶん『人間としてやらなければ』。本能?

こんな時に『GOto』。  なんかおかしい!  経済がどうの。 論理の組み立てが?理解できない。

毎日人が死んでいるのに経済を回す。経済は別政策だろゔ。不況になると自殺者が増える。

この事をコロナに絡ませる。なんか変。原発も似たような論理。

 

いつもの事。  政治は傍観、動くのは現場。  これが日本の政治?

 

:tanno:

アーモンドアイ

久しぶりにしっかりテレビで競馬を見た。秋の天皇賞。

2000年、河西が膵臓ガンで死んでからあまり興味がなく、今では馬の名前もあまりわからない。

スポーツ新聞は読むが競馬欄はほとんど見なくなった。

河西は学生時代から毎週、競馬場通いをして。私からなけなしの生活費を持っていった。

印象に残っている言葉がある。

大学4年の時、部屋に戻ると製図板の上に、皺くちゃの500円札とメモが置いてあった。

忘れもしない言葉〔丹野、人までか馬までも信じられなくなった。〕。

この言葉は20前半の子どもには吐けない。

河西は死ぬまで、競馬に限らず地方競馬、競輪ボート、やり続けた。

私も、勤めた20代はさほどではなかったが30で独立してからはかなり

競馬、麻雀はやったかなという感じかな?

〔俺自身そんなに凝り性じゃない〕昭和60年前後は強烈なバブルだった。

 

設計は?デザインはほとんどしてなくてゴルフ、競馬、麻雀、酒だったような気がする。

不思議な事に金は入ってきた。スタッフも78人いて隣のビルにワンルームも借りてやっていた。

事務所を大きくしようとは思わず、いつでも三、四人のアトリエに戻す、という思いだっだ。

工費30億ぐらいはこの人数でこなせるはずの思い。〔竹中での体験が大きい〕

昭和が終わりバブルがはじけ平成に。

 

仕事は無い。スタッフは3人。コンペやろう。。高野が、京阪奈、中原中也記念館、を担当

仙台文学館を私がやった。〔年一個のペース〕。全て落選。

これで万事休す。

 

事務所にも家にも金がない。

妻曰く『学資保険解約する?』『ちょっと、それは無いなー』

銀行に借りる事に。  ハンコ押せば金が入る。私の性格的に大変な武器を手に入れた事になる。

どんどん借金が増えていく。

妻曰く『金も無いのによく飲めるねー』。だけで他は何も言わなかった。

時を同じくして

住まいが立ち退きを言われ、都市デザイン主催の吉祥寺のコーポラに申し込む。

〔金はいろいろあって都合つけた〕

 

アーモンドアイ、直線400メートル馬なりでスーと先頭に。強い、強い。

続く!

 

:tanno:

三養荘

 

以前から見たいと思ってた三養荘に泊まった。 

村野藤吾90過ぎの作品である。新高輪フプリンスが多分80代の仕事。と思うけど

そんな高齢で気持が続くのか甚だ疑問。

佳水園は京都に行くとだいたい宿が都ホテルなので何度も見ている。

 

三養荘は普段は高くてとても泊まる気がしない。

ただただGOtoキャンペーンのおかげである。通された部屋は『篝火』。100平米位はあるスイート・?。

奥の間が10畳、次の間が6畳、次が8畳。の三間続き。

縁側として幅一軒で7軒位の長さで庭側が木製サッシ、部屋側が障子。

 

三間続きの和室、約7軒の縁側。壮観であるが違和感はない。

100平米も、そんなに広いとは感じない。

中廊下がありそれにお化粧室、洗面室風呂場、トイレが配されている。

 

プラン、空間の構成、各プロポーション、材料の選定、他、他、他全く破綻が無い。

誰かが言ってた。『足すことも引く事もできない。それが芸術』なんだろう。 

より、細く、低く、薄く、弱く、華奢に、・・・・・。

佳水園もそうだが、村野藤吾の数寄屋に共通している。

強さは感じない。ただ、それらの要素、主張しない材料の選定、注意深く練られた納まり、他、他。

これらが一つになった時、微動だにしない建物に対する理念を感じる

これが村野藤吾の 数寄屋。全てを弱く華奢に作り総体として主張の強い建物になる。

詫び、錆び。がよく言われるが『弱さの強さ』?を言おうとしいる。

村野藤吾の数寄家には、空間を作る事において強い理念、思想が感じられ

それを実現するために確かな手法を身に付けたんだろう。

ただ、手法は手法であって本質とは違う。

『吹けば飛ぶような紙細工』その中に詫び錆びもそうたがそれとは別に強い『華やかさ』をも感じる。

八勝館もそうだし、和風建築は『華やかさ』が基本にある。

何年か前の佳水園以来の村野建築。90を過ぎた建築家の仕事。全く年を感じさせない。

秘めたエネルギーが隅々まで行き渡っている。弱さ、華奢の中に『怖さ』を感じた。

多分、極めた人が持つ得体の知れない奥深しさ。かもしれない。

 

着いてビールを飲み、その後大浴場といつも決まっている。

浴場に行ってみると程よい広さの内湯をガラス越しに露天風呂がL字型に配されている。

感じる事は、デザイン、構成の『うまさ』は当然の事だが、感心するのは、全てに言える事だが

風呂に限らず『平面的、ボリーム的』にスケール感の的確さにほとほと感心せずにいられない。

 

村野藤吾の『紙細工』的数寄屋 。築30数年、あと50年経ってもこのままで古くなる事は無いだろう。

 

体に無数の手法が染み付いている。自分の理念、思想をどう表現しようか。

自分の感性を極限まで引き出す。全ての空間、納まりが体に定着している。  

おこがましいが『名建築』^_^

 

:tanno:

日本学術会議

10月4日
日本学術会議

菅政権になって間もない。
今、テレビで賑わしている、日本学術会議の話が面白い。これ一つで内閣の体質が浮き彫りになる。

構造改革、縦割り、前例主義の打破。等をいってる。実務派内閣とも言われてる。
安部政権の継承。もいってる。何を継承するのか? 日本学術会議の話は明らかに

政府側に無理がある。

速やかに訂正した方が良い。組織、官僚制度の改革もいいが、

長年政権側にいて、自分の感性が劣化している。という不安、慄きがないのかな?

 
実務派内閣。確かに。  『世界、日本社会をどう考えるのか。理念、大義は。』 が伝わってこない。

当然あるはずだと思うけど。

話し違うが、8月原爆のいろいろな式典がある。

そこで言われる『世界平和』という言葉、使っている人は、しっかりイメージがあるのかな?
言葉の使い方まで『手法化』?


安部政権の手法だけを継承する訳でもないだろう。

日本学術会議の事は、直ぐ訂正した方が良い。

官僚、組織もいいが、自分の変革も大切だ。と思うけどどうだろう。


まあ   言いたかったのは『手法』についてだったんだけど。またにしよう。

 

: tanno :

ゴルフ

6日、7日で群馬の水上温泉でゴルフ。67才から77才、12名の参加。
当然  gotoトラベルの恩恵。2プレイ一泊で結果的にかかった費用が1人17,000円。安い。

後期高齢者なのにみんな大変若い。  

ちなみに70過ぎたOさんがスタートホールトリプルなのに、41、41の82で回る。

ちょっと信じられない。初めてのコースで。

 

夜の食事では、大学時代からの友達の星野君が生ビールを水代わりに

日本酒約五合、カレーライス2杯、握り寿司、その他つまみ。

いやー驚いた。みんな、全く疲れていない。

 

山田Aさんは毎日1、5時間歩いてスポーツジムで2時間。雨の日も。

ただただ凄い。

 

次は12月初めに沖縄ねー。GOToのあるうちやらないと。

お金の事もあるけど『遊んでもいいよ』と親に言われた子どもみたい。^_^

 

: tanno :

デジタル庁

先日、テレビで平井大臣がデジタル庁の設立意義、組織の作り方等、1間位説明してた。

大変興味深い話だった。組織としては各省庁から優秀な奴を50人程集める。民間からも参加してもらう。コロナで日本のデジタルの遅れが露呈した。それをどうするか?がテーマだった。大臣曰わく『先行してる国も上手くいってるわけじゃない。大変参考になる。』

『大変便利になる。どこに住んでも不便を感じなくなる。手続きの簡略化が、余剰時間を生む。等等。』聞いた話、ほとんど同感だった。

最も感じた事『組織での最終決定は決定者の感性なんだ。数字でもデータでも分析、事例、他たくさんある。でも、決定は感性を信じる。になる』正に同感‼︎

建築でも同じ。まず構造。荷重、地震力、などを解析して鉄筋の量、コンクリートの強度、最も大変な事は、わがままな意匠家との闘い。当然、構造家にも思想も哲学もある。多分、最終決定は『自分のいままでの生き方、感性を信じる』

建築現場。などは正にそう。図面通りに作ればいいか?意匠家の図面は簡単に作れる図面になっていない。意匠家もギリギリのところで設計している。構造、設備、と戦い予算もある。現場はその他にも職人を動かさなければならない。職人の世界もプライドが根底にある。現場の責任者ほど全人格を必要とする仕事。だと思う。

デジタル庁の色んな事項の最終決定は責任者の感性‼︎正に同感である

『トップを女性にしようかな?』と大臣はいってた。

俗に言う頭のいい奴は一杯いる。世の中の仕組みで日頃しっかり勉強すればそこそこ行くはず。では、人間としての豊な感性、事項に対する鋭い洞察力、何よりも相手を認め思いやる気持。どうやって自分を作っていけばいいのか?

多分『人間としての素直さ』。歳に関係なく!。これがないと色んな事に出会えない。はず!。出会いが成長の原点であり、出会える自分がいるか。になる。

 

:tanno:

昔の事を振り返ってみよう

1970年 頃。 大学5年目に入り家からの仕送りも止められ、竹中工務店でとりあえずバイトをしろ。との事、昭和22年山形の農家の長男として生まれる。まだ家長制度が色濃く残っている時代、家を出て、なお卒業できないなんてとんでもない話だった。

2年間、しっかり建築の基礎、業界の事、いろいろ基礎を叩き込まれた。2年目の2月入社を勧められも、設計事務所に行く、ただ決まるまで置いてくれ、という事で辞退。

多分、スタートとしては良かったのかも?  30才まで大手ゼネコンの設計部で、そこでもう一度考えよう。の構想が、設計事務所で生きように。。!

かなり保守的に育てられた。これは72になった今でも残っていると感じる。

 

木村伝設計事務所入社

    中野邸、 中島医院、パイオランドビル、暁教育図書本社ビル、与野ハウスの基本設計を約2年間でこなす。3人のチーフがいたがほとんど木村さんと直でやっていた。

妻(木村さんのお父さんの会社で秘書をやってた〕

に言わせるとかなり生意気だったらしい。まあ25才のあんちゃん。かもね〜?

ある正月開け、倉田さんより、事務所に寄るようにとの連絡。不吉。案の定木村事務所を辞め倉研に来るように!。私にとっては絶対命令。木村さんの下で上手くやっていたのに!

倉研は空気が重い。建築は学問。が色濃い事務所。

4月から倉田研究室勤務。

 

このブログは私が打っている。初めての事。今までは私が文を書き、所員に打たせていたが自分でやってみようと  

 

:tanno:

 

9回目の3.11

 昨日、BS1で3.11~3.14までの福島第1原発のドキュメントをやっていた。

爆発を防ぐためベントをやる、ただ内部の状況がわからない。放射線量の数値すら

わからず、津波で電源もない真っ暗な状況の中、バブルを開けに行かなければならい。

『私がいきます。』 次々と手を上げる。

責任者である、吉田所長は多分3.11に死を覚悟したのかもしれない。

まさに特攻隊。なにがそう、させるのだろうか。遠く離れた本社、官邸と現場の切迫感の差異。

多分、後日この番組を見たであろう日本の上層部(?)はどう思ったのだろうか・・・?

知る必要もないことだろう。

 

約5年前、ちょうどブログを辞めた時にだが、田舎(山形)に帰るのにいつもは東北道だが、

なぜか、常磐道で行こう事になった。

福島第1原発のところで高速を降り、原発の脇を通って再び

高速へ・・・・。ICの名前は忘れた。

原発への道は全て封鎖され、係員がいてダンプだけがひっきりなしに通っていた。

震災4年後くらい。

高速に来れば、道路脇におびただしい数の汚染土をいれた袋が

’ダーーッ’と積んである。そして、一定間隔で放射能数値を知らせる表示灯が何kmも続く。

 

つくづく、『こんなところに住めるか!』

 

今、浪江町は封鎖解除されたのに1000人も住んでいないらしい。

 

石巻、女川町までいって。一泊

震災直後、妻と車で松島、石巻、女川町にいき。

果てしなく続く瓦礫の風経を見て。自然の偉大さもそうだが

人間のチッポケさを強く感じたのを思い出す。

 

いくら整備されても心は、癒される事はない。

ただ、まだ津波は自然だから受け入れる。

 

でも、原発はダメだ。本当の人間の愚かさの象徴でしかない。

 

日本は原子爆弾の被曝国であるとともに

世界最大の原発事故国でもある。

 

それがなんだ。核軍縮の1番のリーダー国でなければならないのに。煮え切らない意思表示。

自然エネルギーでも、遅れを取っている。まだ令和が定着していない。

 

 

大和民族ってなんだろう。

 

 

自分の命を顧みず、手を挙げた奴らは、なんだったんだろうか。

よく、再稼働の決断ができるもんだ。

 

「神が怒っている。コロナを送り込んできた。」

 

 

 

:tanno:

30年ぶりの移転

去年9月に事務所を移転した。

 

この歳になっての引越し、ちょっと億劫だったけど

前向きに考えて、あと何年やるかはわからんが

「心機一転」という考えもあるという事で・・・。

 

前事務所は平成元年からなので、29年間

生活の一部で家にいるより、事務所の方が落ち着く日常だった。

コーポラティブハウスの設計は全て、ここでやったし、いろんな出会いがあった。

 

すぐ近くに引越したが、また、微妙に感覚が違う。

 

今度の事務所は5階で、北向き。

光が安定していて、北向きは落ち着く!

それから、5階からの眺め。時に夕方、陽を受けて、見える建物が

きらきら輝いている。北向きもそれはそれでいい!

 

 

:tanno:

孫とのライン

手帳購入

普通は年が開ける前に

用意していたが、年のせいだろう。年が明けるという

新鮮さ?が薄れいているのかも。

いろんな事にルーズになる。

 

見開き1ヶ月、何十年も使っているが、

同じやつがない。ケータイもガラケーだし。

 

予定を書いておかないと忘れる。歯医者の予約なんか

確実に頭から、消えている。

 

予定を手帳に書いておくという事を

ほとんどの人がやっていない??のかも

 

まず、字を書くという事が日常にあるのか?

年賀状をもらい、一言書いてあった・

「こういう 字 を書くんだ」

こんな事に新鮮さを感じる。

 

「文章を書く」という行為とはなんぞや。

など考えたいがそういった思考は億劫になってきている

 

ただ、確実に人間が変質していっているのだろう、と感じる。

 

 

小1の孫が シンガポール からラインで、いろいろ書いてくる。

漢字も「書く」という行為がなくなる。

変換でしっかりした文になっている。

 

変換して、ママに見てもらうらしい。

「字をしっかり書く」など、意識がない

なんども手を動かして覚える。

などの行為は必要ない時代。

 

昔は製図の鉛筆の線そのものが個性だったし、センスだった。

競って「腕を磨いた」

 

時代が進むということは人間のすばらしい文化と引き換えらしい。

「文化」という世界はAIにはあるのかな?

 

「感見」「あやふやさ」など受入れ

対処するのが人間かと思っていたが

全てを「はっきりさせる」時代。

 

人生「引き分け」でいいと思うけど! 

 

 

 

:tanno:

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正月

元日、例によってい中野の西新井大師へ、

旧年の破魔矢を焼く、あま酒を飲む、おみくじを引く

を約45年間くらい?やっている。

なぜ、西新井大師なのかは定かではないが、

結婚直後から来ているような気がする。

 

おみくじ、久しぶりに「凶」だった。

 

前回みたいに引き直しはしない。

 

「転んだら、起きればいい」と書いてあった。

いい言葉だと思ったが、この年寄りに

そんな力があるのか。

まぁ、転ばないよう注意するしかない。ヨシとしよう。

 

2日、伊豆へ、毎年12月に入ってから予約するので

それなりの宿、この辺もどうでも。

 海を見て、富士山を見て、次の日、箱根神社へ

 

3日、まだ3ヶ日「鳥居」がみえてから

車の中で2時間は毎年のことながら大変。

箱根神社への初詣では、10年くらいかな

おみくじは「小吉」だった。

 

何でも忘れるタイプなので。もう新規はないだろう。

今年1年はどうしよう。という思いもうすい。

 

そんなもんだろう。

 

 

 

:tanno:

5年が過ぎた。

 

明けましておめでとうございます。(誰に言っているのか???)

 

久しぶりのブログ、約5年前 あまりにに利不尋な出来事に

立て続けに遭遇。言葉の無力さを痛感。

 

その出来事の気持ちの整理ができず。引きずっている事もあり

とてもブログが書けなかった。

 

自分の考えている事、思っている事、考えた事 等の整理を目的に始めたブログ。

 

再開できるのかな?のところまで来た?

 

本年から、又 よろしく!

 

 

 

:tanno:

 

 

 

 


2014

鎌倉

天気がいいので、鎌倉に行こうという事になった。

 

年2回くらい行く。

昼につくように出かけ、昼食は豆腐料理の“ひさご亭”が定番だ。

鶴岡八幡宮にお参りをし、正月のリベンジでおみくじを引く。

今度は中吉で、仕事は“周囲の人に恵まれているので心配ない”との事だが、

神様もかなりいい加減だから……。

 

 

今保存が問題になっている、隣接する近代美術館で岸田劉生展をやっていた。

去年もみたからという事で却下。

内心は、建物をもう一度見たかった。

 

去年秋にミケランジェロ展を見に、久しぶりに上野の西洋美術館に行った。

展覧会より、コルビジェを久しぶりに見に行こうと思って行ってみたが、

これが鎌倉の近代美術館と似たような作りになっている。

特に、動線の構成の仕方、シークエンスがすばらしい。

(坂倉順三とコルビジェ、当然の事なのかな。)

 

 

 

鎌倉へは大体、あじさいの頃に出かける。

名月院に行くが、裏手に井上武吉先生のアトリエがあった。

30才代後半、井上先生に「名古屋久屋大通りのコンペがあるけど、一緒にやらない?

黒川(紀章)さんが審査委員長で、今彼と、ある美術館を一緒にやっているんだよ。」

と声をかけられて、2ヵ月間、週一回のペースでアトリエに通った事が思い出される。

畳一帖くらいの粘土模型が、行く度にどんどん変化していく様を、

また、世界的彫刻家の製作過程の一部を見させていただき、

大変な経験をさせていただいた。

色々と思い出す楽しいコンペだったが書くと長くなる。

(図面は全部事務所のどこかにあるはず。)

 

 

 

鎌倉から江の島方面に向かうも大渋滞で、

途中、以前から気になっていた“MAIN”というレストランでお茶をした。

太平洋が一望できるすばらしい絶景のレストランだ。

次回はここでハンバーグを食おうという事になり、そのまま帰宅。

 

 

箱根も鎌倉も、車で約1.5時間。

 

気晴らしにちょうど良い。

 

 

 

:tanno:

 

 

 

 

 

3.11

東日本大震災から3年経った。

原発は都知事選でも争点にならなかった。

現状をみると、原発ゼロは都知事選が最後のチャンスだったのに。

 

まぁ東京に原発はないし、こんなものだろう。

沖縄も一緒だよな。

 

 

 

10月からやってきた”サロンK”が、今日で最後となる。

毎月第二火曜日に開催し、全6回のつもりでやってきたが

今回で第9回とのこと。

よく飲んだ。

 

河西の言葉が頭に残っていた。

 

「俺が死んだらパァーっとやってくれ」

 

もういいだろう。

 

超保守的に育てられた私と、

相当自由に育てられた河西。

なぜか馬が合ったのだろう。

20才台で”超大人”だったメチャクチャな彼に

大変影響を受けたのは間違いない。

 

 

 

”サロンK Part 2”をやろうという声が上がっている。

時を置いて、単なる飲みだけじゃなく月1回何かやろうか。

今までは、その練習だったということにして……。

 

 

さぁ、どうなるか。

 

ちょっとエネルギーがいる。

 

 

:tanno:

去年のこと2

10月から“サロンK”を開店した。

外での飲み食いをやめて、事務所でやろうという事で、

14人を限度に毎月第二火曜日PM600~。

とりあえず3月までという事で始めたが、3か月で5回もやってしまった。

メニューはワイン、チーズ、ピザ等で、ミーティングをしない当社としては良い試みだ。

外部から7,8人加わるので非常に楽しい。

みんな、言いたいことを言って非常に盛り上がる。

 

 

1217日はゴルフだった。

冬のゴルフは好きだ。

夏はやらない。

でも、寒すぎて体が動かず、午前は久々の大叩きで、57回。

ちょっとひどい。

午後は、「100回はなんとか阻止」と、6番まで4オーバー。

100を切る可能性が出てきたら、7番でトリプルボギーで万事休す。

結局104回。

まぁこんなものだろう。

歳はとっても、精神は未熟だからね。

 

 

基本的にはあまりこだわらないし、凝り性でもない。

練習もあまりいかない。

運動不足解消と思ってやっているが、歳とともに一緒に遊んでくれる人が少なくなった。

これもしょうがない。

 

 

1226日は、いつものメンバー(山田、星野、河野君)とのゴルフ。

大厚木C.C.だ。

このメンバーで、年56回くらいやっている。

いつもショートホールで500円ずつ出し合って、計2000円をニアピン賞としている。

パーしばりで、グリーン外からパーを取ると、ニアピンは繰越になるというルールだ。

簡単には取れない。

11月のゴルフで、4階建計8000円の掛かった最後のショートホールで、私がニアピンで

取ったと思ったが、グリーン外から山田にチップインを決められ、

私もバーディーパットを外し結局流れた。

グリーン上では3人のジジィ共がニアピンを阻止しようと、

熱くなってみんなでラインを読む。

ほどほど楽しい。

 

 

26日はショートホール3ホール目で河野君が3mにつけニアピンだったが、

私が30mくらいのバンカーショットを奇跡的に50cmにつけて繰越が濃厚だったが、

OKが出ない。

一応打てという事だ。

パーパットを慎重に打ったがカップを1回転してハズし、結局河野君に6000円を取られてしまった。

「潔くOKを出せよ」

 

 

スコアは今回は調子よくて、久々に90を切れるかと思ったが、

最終ホールでトリプルボギーを叩いて91回。

欲を出すと失敗する。

いつものことだ。

 

 

 

―――例年のごとく忘年会は盛り上がった。

5月に岩手、八幡平のミレンダ荘に行こうという事になった。

「盛岡は俺の庭みたいなものだ。案内するよ。」と、山ちゃん。

さぁ、実現するかな……?

 

そう言えば山田も奈良に行こうと言っていたな……。

 

 

結局去年は、夏以降どこにも出かけなかった。

 

 

 

:tanno:

 

 

 

 

 

去年のこと

 

去年、お盆に田舎に帰った。

毎年日程は決まっていて、13日の墓参りに合わせて帰省し、

14日は湯殿山、15日はフリー、16日に上京。

 

 

15日必ず立ち寄る幼馴染の清子ちゃんの家に行ったら、川野がいた。

「ブログ見てる」と言われて驚いた。

 

“ウソだろ!!“

 

ブログを書くという事は確かに心の中に「リトル丹野」がいるので、

本心は全部書けない。

たぶん、誰にも見せない日記の中でも同じことだと思う。

気持ちの数%が文章になるという感覚だ。

 

 

清子ちゃんに手作りの置物をもらった。

ナンテンの枝に9匹の猿が乗っているもので「“苦難去る”で縁起がいいので持ってて」

ということで、我家のキッチンの縁に置いてあったが、2匹が落ちてしまった。

 

正月のおみくじは凶だし、

今年はあまりいい年でないかもしれない。

 

 

 

追:本田圭介が、もう2,3度テレビで「リトル本田」を言うと

  今年の流行語大賞かなと思うけど……。

 

 

 

:tanno:

 

 

 

 

 

明けまして、おめでとうございます。

正月は下田だった。

元旦朝、毎年初詣に行く新井薬師寺に行った。

お参りをし、おみくじを引いたら“凶“だった。

家族が笑う。

過去、3度続けて凶を引いたのを覚えているからだ。

引き直しはしないで下田へ向かった。

 

途中、浄蓮の滝でひと休み。

渓流で子供が釣りをやっている。

店でイワナを放しているという事で、結構釣れているが

釣り上げてはバレる、釣り上げてはバレるでなかなかゲットできない。

「なにやってるんだよ……。」

 

幼いころ、魚釣りはもちろん、川をせき止めてのドジョウ取り、

箱メガネを使って石の間のカジカを突いていた。

泳ぎは当然最上川だし、向こう岸まで行けるかが勝負だった。

 

 

去年、オリンピックが東京に決まって、これから数年色々なことで賑わうだろう。

地方の衰退、疲弊が言われている。

 

どうしても私にはピントがズレていると思えてならない。

 

都市は完全に金属疲労を起こしている。

今語るべきことは、都市についてである。

地方から学ぶ事、経済の発展と引き換えに失っていく大切な事を、

本当に考えなくてはならない。

原発を作ったのも都市じゃないか。

100%経済性からしか発想できない世の中が、都市の心の空洞化を招き、

考えられない人間性の喪失を生んでいる。

東北の復興まで、経済、経済……で進んでいる。

いや、進んでいない。

たぶん都市が地方を食いつぶすんだろう。

 

“地方に学ぶ”が本当の姿と思えてしょうがない。

 

 

“リトル丹野”が言う。

「しゃべるな。書くな。」

 

 

どんな一年になるのかな。

凶の文面は、大雑把にいうと

“仕事をするな”

という事だったように思う。

 

 

 

:tanno:

 

 

 

 

 


2013

8月丑の日。

とある業者が食事をしたいという。

2,3回断ったがどうしてもというので、2日ということになった。

10数年付き合って一度もない。

 

「よーし、みんなで行こう。」

10人程集めて、どこにするかということで何年ぶりに“安斎”にした。

安斎は荻窪の名店である。

もう5,6年も行っていない。

――とんかつ屋の“たつみ亭”で食事していたら、安斎の主人に出くわし

勘定を全部払ってもらったのが最後だったように思う。

 

超やわらかく仕上がった本当にうまい鰻だ。

帰りにお土産までいただいて……。

 

また行かせて頂きます。

 

 

5日。

山ちゃんが事務所に来たので、昼に蕎麦屋に行った。

最近昼飲みが多いという事で、ビールで乾杯。

 

7月にタイに10日程行ってきて、

バンコクや、パタヤなどで7日間ぶっ続けでゴルフをやったとの事だった。

ハーフ50を切ったのは2回だけ。「しょうがないねー。」

 

「本当に楽しかった。当分いいや。」と思ったが、

日本に帰ったらまた行きたくなったとの事。

「11月どう?」

 

 

2時間程経ったところに偶然、

安斎の主人が蕎麦を食べに来た。

 

2日のお礼を言ったら、

「いい仕事してるねー。」

 

パソコンいじれるのかな……?

 

 

 

さぁ、10日からお盆休みだ。

 

 

 

:tanno:

 

 

 

 

 

本日の杉並荻窪

所員の赤澤です。

暑い日が続きます。

曇り空な天気も続きます。

今年東京は梅雨があったのか、本当に明けたのか。。

 

なんか落ち着かない天候続きですが、現場は構わず動き続けています。

 

今動いている現場は成城と吉祥寺のコーポラがありますが、その中の何件かの住戸設計をさせていただいております。

事務所が荻窪なので、頻繁には現場を見に行けていないのが辛いところです。

事務所で図面を描いて現場監督と電話でやり取りをしているだけだと、なかなか造っている実感が湧かない部分もあります。

でも設計事務所に限らず、そんな思いの中で机に向かって仕事を続けている人もたくさんいるのかなと思います。

 

そんなことを考えている時、以前担当していた杉並荻窪の現場が事務所に近いので、たまに見に行きます。

もう少しで竣工から1年が経ちます。

見に行くと、一年前バタバタと現場に通っていた時のことが鮮明に目に浮かんできます。

 

 

少し振り返ったところで、また机に向かって新たな出会いを楽しみつつ、設計を進めていきます。

 

:akazawa:

 

 

 

 

 

7月のこと 2

出かける時は宿も電車も全て旅行代理店にしている。

当たり外れがあまりない。

窓口で相談すれば全てやってくれる。

(そもそもパソコンが使えない。)

 

今回もそうしたが、びっくりした。

パック(宿と電車)にすると相当安くなるとの事。

新幹線も“のぞみ”と“ひかり”で値段が違うのは良しとするが、

乗る時間帯によっても変わってくる。

かなり細かく設定しされている。

驚きであると同時に、「日本人ていくら細かいこと、複雑なことでもどこまでもいける」と

つくづく感じた。

確かに、ユニットバスやキッチンも事細かくチョイスできるようになっている。

 

土曜日は鳥羽に宿をとったが、金曜日の名古屋はどこにしようか迷った。

ホテルが食事付きの値段で、ひとり毎の金額になっている。

今は、かなりのホテルがそうなっているとの事。

「ホテルの夕食はいやだな」と言ったらかなり探すのに苦労し、結局東急ホテルになった。

 

これがよかった。

19日なので特別デーになっているとの事。(トーキューである。)

朝食のみ付いて8000円ちょっと。

ところが朝食は“なだ万”だった。

かなり得した気分になった。

 

名古屋から伊勢が意外と時間がかかる。(約2時間弱)

遷宮館、外宮、内宮という順序でまわり、

昼食は抜いて内宮のそばの横丁で何か食えばいいだろうという事になった。

 

伊勢に来る前に石川さんと飲んでいて、お参りの話になった。

彼は、毎年5月頃に行ってるらしい。

彼曰く「私は日の出前に五十鈴川でスッポンポンで清めてからお参りするんですよ。」

 

本当かな……!!

 

 

伊勢神宮は現在“式年遷宮“の最中であるが、102日、5日がオープンとの事。

宿は当然として、タクシーの予約もものすごいことになっているらしい。

62回になるが、20年に一度である。

材木の問題で、かなり苦しくなっているらしい。

まさか、洋材を使うわけにはいかないし。

出雲大社が60年に一度だから、神宮も長いスパンにすればいいと思うが絶対に出来ない。

どうするのかな?

 

社はほとんど完成し、足元の工事が残っている程度に見えた。

頭だけ出している新しい社が日に当たり、金色に輝いている。

無塗装の桧ってこんなに光るものなの……?

全容が現れたらちょっとすごいんじゃないかな――。

 

初詣とか、手を合わせる時は俗人なのでいっぱい頼みごとをするが

後で考えると正宮では、ただ手を合わせただけだった。

別に神宮に頼みごとをするのは失礼だと思ったわけではない。

 

 

 

後日、坂寄君と伊勢の話をした。

「丹野さん。一回でいいんじゃないの。」

 

確かにこれはクセになる。

次は高山に行って民家でも見るか。

 

 

:tanno:

 

 

 

 

 

 

 

7月のこと

あっという間にもうすぐ盆である。

時の経つのが早い。

今年の前半は、ほとんど休みをとらなかった。

古い友人にバンコクに1週間ゴルフに行こうと誘われたが、固辞した。

「今しか遊べないよ」彼は20年前から言っている。

彼曰く「丹野さんは毎日が遊びみたいなもんだからな。」

 

遊びじゃない。

 

ただ、仕事は全く苦にならない。

 

 

――7月中旬。

朝の3時まで飲んだ。

最近ではほとんど12時前でやめている。

ひどい体調で次の朝、名古屋に向かった。

 

名古屋駅より地下鉄で30分。

八事駅から徒歩5分のところに八勝館八事店がある。

門を入り細い玉砂利を踏みながら玄関に向かうと若女将が迎えてくれた。

「先に庭を案内しましょうか。」

適度な傾斜地に建てられたこの建物は当然庭も程よい起伏があり

定着したコケが年代を感じさせる。

相当数のモミジが華奢な数寄屋になじみ、御幸の間、残月の間、松の間、梅の間を

外から見ながらの散策はまさに非日常であり、小宇宙といえる。

「秋の紅葉はとても美しいですよ。」

 

梅の間に通された。

築100年位だが古さは感じない。

大切に維持された木造建築はすごい。

魯山人がよく使った部屋とのこと。

入口に魯山人作の行燈が置いてあり、中に入ると先程歩いた庭越しに御幸の間が目に入ってくる。

 

食事の後、「建物をご覧になりますか。」

御幸の間、残月の間を案内してくれた。

堀口捨己の1950年頃の作品である。

平面図、写真からではわからない非常に多様な空間である。

のびのびとした解放感のある空間構成は、実物を見て初めて感じられた事である。

捨己55才頃の作品で、この作品の中に大胆さと捨己の自由な感性がきらきら輝いていて

只々、よくつくれるものだと感心させられる。

 

となりの残月の間は、これ以上に写真で見るのとは大違い。

プロポーションが全く違っていた。

よくまぁこれほど自由に自分の感性を信じて設計できるものだと思うが、簡単ではない。

試行錯誤をしながら自分と完成する建物を想像し、

細部まで見切っていく空間が体に定着しない限り、前に進まない。

間違いなく戦後日本の代表的な建築である。

 

その後、玄関脇の待合室で女将と話をした。

相当手をかけて維持しているとの事。

これも日常なんだろう。

三溪園に一度行ってみたいとの事だった。

(御幸の間の天井が三溪園臨春閣からの由来といわれている。)

 

 

テーブルの上に灰皿とマッチが置かれてあり、

一服吸って「ス――」っと緊張感が解かれた気がした。

 

 

いい時間。

いい出会いだった。

 

 

明日は伊勢に行く。

 

 

:Tanno:

 

 

 

 

 

 

等々力コーポラ 完

ついに引渡しがおわりました。

 

等々力コーポラブログ 3を書こうと思っていたら、

あっという間に”さん”ではなく”完”になってしましました。


 

引渡し会終了後、敷地内の駐車場で組合員の方々に鍵を渡した後、

お互いの家を見せ合っている楽しげな様子をみながら「無事に終わった…」と安堵した一方、

現場担当者として新地の状態から現場に通いつめ、一喜一憂しながら建物の完成を

見届けたことを思い出すと、「自分の手から離れた…」という若干の寂しさも感じました。

 

娘を嫁に出す父親の気持ちと一緒です。

経験がないので推測ですが、間違いないです。

 

 

引渡し会の中で、挨拶をさせて頂いた際に「まだ終わった気がしない」と口から出たのは現場担当者として

現場の状況を鑑みたわけですが、きっと組合員の方々の引越しが完了し、“現場“でなくなったとしても

「終わった」とは感じないです。

 


「建築をつくることは未来をつくることである」というタイトルの本がありますが、

特に住宅に関しては自分の経験上、竣工が終わりではないということを切に感じています。

なので、いつまでか分かりませんが、入居された方々の未来を見届けるために、

もうしばらく、父親のように陰ながら見守りたいと思います。

 

よろしくお願いします。

 

 


 

 

等々力コーポラティブハウス建築に携われた皆様。

 

本当にありがとうございました。

 

 

おつかれさまです。

 

 

 

KUT西澤

 

 

 

 

 

吉祥寺コーポラ

吉祥寺現場から

 

 

現場は着々と進み、着工してから2か月が経とうとしています。

 

先週末に地下1階の床が打ち終わり、実際の地下の高さ関係が分かるようになりました。

 

 

現場に出て、実際の作業を見るようになり様々な職種の職人さんが関わっていることに驚きました。

 

上の写真の中でもいくつも業種・作業が分かれています。

 

上棟に向け、コンクリートの打設が続いていきますが、

次回の打設ではいよいよ壁面が立ち上がってくるため今から当日の天気が気になります…。

 

 

 

 駅から現場に向かう途中でお客さんにお会いすることが多く

吉祥寺を歩いているといつも少し緊張しますが、見かけましたらお気軽にお声かけください。

 

 

:matsumoto:

 

 

 

 

 

 

 

変わらない

久しぶりに新宿に出た。

 

 


伊勢丹のメンズ館が目的で、東口から地下道を通ってのアプローチだった。

 

伊勢丹デパートに入ると、ケーキ店がズラッと並んでいる。

 

どれも700円くらいのケーキである。

 

1階に上がるとそこは、各ブランドの化粧品売り場になっている。

 

それぞれの店の構成、雰囲気が流石新宿である。

 

 


AM1030なのに人でにぎわっている――。

 


格差社会が話題になっているが、

 

それって日本では男と女の世界もかなりあると思えてならない。

 

事務所のある荻窪は駅ビルも含めて、男性物の靴店は見たことがない。

 

駅ビルの食堂街に人気イタリアンがあり行列を成しているが、ほとんどが女性である。

 

 

メンズ館で、定価の半額以下になっているという薄手のセーターを買い、

 

新宿に出たときは必ず立ち寄る隣の伊勢丹会館の1階、coffee「バン」に行った。

 

相変わらず混んでいて、カウンターということになった。

 

マスターに「この店何年になる?」と聞いたら「46年」とのことだった。

 

私は、木村事務所の時からなので、かれこれ42年くらい来ていることになる。

 

 

 

飲むものは「ハワイアン」と決まっている。

 

ハワイアンとは、酸味の効いたアイスコーヒーだが、この酸味がずっと気になっていた。

 

聞いたら「パイナップルのシロップを少し入れてある」とのこと。

 

納得である。

 

 

美味い!!!

 

 

 

 

変わらない味と店の匂い。

 

たぶん基本的な根っこのところが、この混み合いの要因なのだろう。

 

46年間、何も変わらぬ思いが“今“なのだろう。

 

 

 

かつて (確か) 倉田康男は言った。

 

 

「 建築の設計とは、愛する人に捧げる行為である。 」

 

 

:tanno:

 

 

 

 

 

 

 

 

 

年の始めに

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

新年明けましておめでとうございます。

写真は太平洋から昇る2013年の初日の出です。

 

 

元旦に何年振りかでMOA美術館に行った。

好みは別として内・外の空間構成、ディテール等

竹中工務店の“力”を感じさせる建物である。

広重の浮世絵展が開催されていたが元旦なのにかなりの人が

いたのには驚いた。

  

 

2日は初めて起雲閣を見た。

大正半ばに別荘として建てられ、昭和にかけて増築された

“大正ロマン”をぷんぷんに感じさせる木造建築である。

麒麟の間は内壁が鮮やかな青で塗られた和室だが

書院造りとしても全く違和感がなかった。

別に壁が赤でも良いと思うし、和風建築の不思議を感じる。

 

 

3日は10数年ぶりに倉田先生宅にうかがった。

 私の仲人であり、ゼミの先生で師でもある。

先生が72歳でお亡くなりになり、

5回忌で呼ばれて以来本当に久しぶりとなるが

奥様、娘さん達、お孫さんと昔話で盛り上がりつい長居をしてしまった。

 

 

倉田邸には結婚後27歳頃から20数年間、年賀にうかがっていた。

1月3日と決まっていた。

たくさんの人が集まり、娘さん達が小さかった初期の頃は

庭に卓球台を出して遊んだりしていたが、後半は囲碁と麻雀。

酒を飲みながらの話でいつもAM2時頃お開きになるという

パターンだったと記憶している。

小さなお孫さんが倉田さんの廻りを走り回っていた記憶があるが

今24歳との事。

 

 

本当に時を感じる。

 

 

私にとって年の始めとしてのいいひとときだった。

 

 

倉田研時代は蓼科の現場、小松の現場と遠い建物を担当していたが

毎週の現場定例に倉田さんも出席されていたので必ず一晩二晩は一緒に過ごした。

また、事務所勤務の頃も帰る方向が同じという事で先生の酒のさめるのを待ち(AM2時頃)

家の側まで車で送ってもらうのが日常だった。

 

 

そんな事もあり、相当「倉田康男」を感じさせられた一人と思っている。

 

 

“年の始めに” は何もないが、今年も伊勢に行こうという事になった。

今年は景気が良いとテレビで言っているが、それは良かったり悪かったりで

長いスパンで考えればたいした事ではないように思う。

ただ原発はもう一度事故が起これば“ジ.エンド”である。

 

どこにも、誰にも、期待できないので神に祈るのみか……。

 

 

 

まぁ、良い年でありますよう――――

 

 

 

:tannno:

 

 

 

 

 

 

 

 


2012

出会い

11月初旬、家に帰ったら薄墨の封筒がテーブルの上に置いてあった。

 

「竹内…まさか……。」

 

竹内さんが1025日、75才を目前に亡くなったとの事だった。

 

うかつだった。

 

まったく頭になかった。

 

今年の初旬、作品が掲載された雑誌をお送りし、その返事のTELが最後の会話だった。

本当に元気だったのに…。

「等々力の現場から私の家はすぐなので、たまに寄ってよ。」

「わかりました、寄らせていただきます。」

 

それが今日である。

 

一体何をやってるんだ。

 

週一回は現場に行っている。

いつも頭によぎる。

それが一度も伺ってない。

一度会いたかった。

話をしたかった。

 

いつでも会えるという思いで今日まで来た―――。

 

 

竹内さんとは約30年前からの知り合いである。

当時、水沢工務店の設計部長さんで、本当にかわいがっていただいた。

最後は役員をやられていた。

「○○邸が竣工したので見に来ない?」

「○○の現場に行くけど一緒に行く?」

「車屋の模型ができたので会社に来いよ。それから久しぶりに一杯やろう。」

ゴルフもやった。

奥様の実家がある弘前に、桜満開の頃連れて行ってもらった。

 

あまり食えなかった私の事務所に仕事をたくさんいただいた。

何よりも建築を教えていただいた。

スマートな方だった。

シャイな方だった。

多趣味な方だった。

11つの言葉に存在感があった。

 

 

1113日、南雪谷の竹内邸におじゃますると奥様が迎えてくれた。

突然のことだったとのこと。

多発性のガンで手術が出来なかったらしい。

2人の子供、4人の孫に見守られてスーっと逝ったとのことだった。

遺骨と遺影の横に趣味のウクレレがおいてあった。

遺影に手を合わせていると、後で奥様が今までのいろんな事を話された。

 

 

泣いた。

 

 

20年位前に竹内さんとパリに一緒に行った。

発注者がパリ在住の方で、「契約はパリでやりましょう。旅行がてらにいらっしゃいよ。」

との誘いだった。

六本木の高級賃貸マンションの設計をしていた。

「丹野君。話はついている。KUTでの設計だ。」

という話だった。

 

楽しい一週間だった。

奥様はその事も話してくれた。

「主人も本当に楽しかったみたいですよ。」

 

私の後ろで奥様が話す言葉に愛情があふれていた。

 

「主人は、『石原裕次郎の歌じゃないけど、全く悔いはないよ』と言っていっちゃいました。

 でも、ちょっと早かった……。」

 

 

本当に早すぎるよ。

別れも“出会い”とは思うけど、ちょっとつらい―――。

 

 

 

 

そう言えば

 

私の設計した建物もいくつか見ていただいたけど、

一度も褒められたことはなかったな。

雑誌を送ったときも「いい文章書いてるじゃないか。」だった。

 

 

 

:tanno:

 

 

 

 

 

 

 

はじめまして、松本です。

先週の月曜、新しく始まるコーポラティブハウス吉祥寺本町の組合結成総会が行われました。

 

設計、コーディネーター、そして組合員の方。

 

たくさんの方がスタートをきる総会の場に初めて参加することができました。

 

 

全13世帯―――。

 

このひとつの建物にこれから多くの人が関わり、完成に向かっていきます。

 

自分がそこに参加するという責任の重さを感じる1日。

 

そしてまた、新しい建築に関わることができる嬉しさを感じる1日でした。

 

 

また、今週末には杉並荻窪の引渡し総会が控えています。

 

ひとつの建物が完成し、そこから組合員の方たちの新しい生活が始まっていく…。

 

事務所に入り4か月。

 

この先たくさんある1つ1つのスタートを大事にしていきたい。

 

 

 

:matsumoto:

 

 

 

 

 

20数年ぶりの

 

地鎮祭があった。

 

施主を交えて昼食をとり、2時頃おひらきとなった。

 

関係者でちょっと飲みたいという事になったが、休日の昼。

 

飲み屋などやっていない。

 

誰かが「カラオケに行こう」と言うので、20数年ぶりでカラオケに行った。

 

確かに酒は飲めるし歌も歌える。昼もやっている。

 

9人で行ったが次々と曲の予約が入る。

 

石川さんが「さぁ、誰がやめようと言うんだろう。」

 

確かにこれではエンドレスである。

 

大変なエネルギーである。

 

本当に疲れた。

 

60才台半ば。意外と面白い。

 

 

またみんなで行こう。

 

 

:tanno:

 

 

 

 

 

時代の変わり目

 

9月初旬。

 

現場所長から「和室の木を発注したいので打合せをお願いします。」との連絡があり、完成間近の現場に行く。

 

和室の打合せなんて本当に久しぶりだ。

 

柱、廻縁、落し掛け等の寸法を決め「太ければ少し削ってもらう」と言うと

 

「それはできない」と言う。

 

加工し、練付けた木が現場に入ってくるとの事だ。

 

驚きである。

 

「じゃあ極端に言うと、大工さんはカンナは使わないという事か。」

 

「そうです。」

 

―――考えてみると思い当たるふしがいくつもある。

 

これじゃ、一人前の大工を目指して修行するなんてあほみたいな話になる。

 

本当に特殊な建物を除いて必要としないのだ。

 

 

後日、畳の打合せをした。

 

「本畳なんて作っている職人はほとんどいません。」とのこと。

 

特に、藁は震災以後使われなくなったという。

 

 

私の現場はスタートすると、各職種の担当及び現場監督と“顔合わせ”と称して飲み会を行う。

 

上棟時には施主を交えてみんなで一杯やる。

 

みんな喜んで出席してくれるが、“時代の変わり目”を感じているのかもしれない。

 

 

本当に人間、どうしちゃったんだろう……。

 

 

:tanno:

 

 

 

 

 

8月のこと

 

8月初旬 夕方4時―――

 

道路際の花壇のふちに腰かけ、あと1カ月で完成する現場をみていた。

 

職人が道路を行きかい「暑いですね」と声をかけてくれる。

 

突然、若い茶髪のお兄ちゃんがヘルメットをとり私の隣に腰を掛け「疲れたつかれた…」

 

シャツは汗びっしょりで体にはりつき「ハァーハァー」

 

たぶん限界なんだろう。

 

2,3分もしないうちに現場から声がかかる。

 

「おい、やれよ!みんながやってるんだぞ!」

 

返事はない。

 

ヘルメットをかぶりふらつく足取りで現場に戻った。

 

大丈夫かなと心配になる。

 

理屈も何もない。ただ必死で体を動かし、何も考えない。1日が終わる。

 

所詮、20代の若者が50歳のオジサンには体力も根性もまだまだ敵わないんだよ。

 

そうやって1人前になり、プライドがつくられるんだよ。

 

「明日、絶対に来いよ」と心の中でつぶやく。

 

 

 

 

 

817日―――

 

まだ盆休み中だが、20日にコンクリート打設ということで現場に向かう。

 

用賀を過ぎたところから突然の雷雨。

 

現場についたら、みんながカッパを着て鉄筋を組んでいる。

 

どしゃぶりにカミナリである。

 

現場所長に「間に合う?」

 

「大丈夫です。20日コンクリ―トを打ちます。」

 

“工期、責任感”そんなものではできない。報酬が少なすぎる。

 

たぶん若い時から培われた“プライド”がそうさせるのだろう。

 

最近の現場は年寄りが多く、若い職人はほとんどいない。

 

賃金が低いだけではないと思う。

 

“達成感”すら味わえない乾いた現場システムになりつつある。

 

 

いやだな――。

 

 

:tanno:

 

 

 

 

 

等々力コーポラ 2

前回ブログを更新してから2か月。

 

等々力の現場はあっという間に進んでB1Fの床が打ちあがりました。

 

現状はこちらです!!だけでは寂しいので、写真で振り返ることにします。

 

 

↑耐圧版が打ちあがりピットの立上り(地中梁)の配筋をしたところ。(8/28)

 

鉄筋の立上りがかっこいいです。

 

鉄筋の間に浮いている塩ビ管は、コンクリートを打った後に配管用の穴として残る部分です。

 

ピット部分は建物が完成したら勿論見えませんし、住む上ではなかなか意識されない部分ですが

 

機能的にも構造的にも非常に大事なところです。

 

是非、記憶に留めてください。

 

 

仮設で設けられた切梁のH鋼も、足場もかっこいいですね。

 

 

↑ピット立上り(地中梁)とB1F床の打設中(9/12)

 

綺麗に配筋されていた鉄筋が隠れていきます。

 

名残惜しいですが、左官屋さんによって平らになった床面もまた綺麗です。

 

この写真の段階で、作業が始まり3時間くらいです。

 

コンクリートの打設は途中で止めると継ぎ目ができてしまうので、打ち切るまで作業が続きます。

 

この日は8:30~18:00まで職人さんたちはほとんど休憩入れずに作業していました。

 

感服です。

 

 

↑現状(9/18)

 

切梁も外され、いよいよ地上目指して立ち上がっていきます。

 

ふと気づけば着工してから3か月。

 

次にふと気づくときには忘年会シーズンになっていそうです。

 

気持ちよく年を越せるよう、一層気を引き締めて現場に臨む所存です。

 

引き続きよろしくお願いいたします。

 

 

:nishizawa:

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

等々力コーポラ

 

 

等々力の現場は着工して早一か月となりました。

 

梅雨の時期ですが天候にも恵まれ、着々と工事は進行しております。

 

なぜか、週一回の現場定例打合せの日は大概雨が降っていますが…。

 

 

”等々力コーポラティブハウス”のページでは山留作業の写真を載せていますが、

 

現在は掘削作業が始まっており、いよいよ現場らしくなってきた!という印象です。

 

 

現場の様子をみているといつも思うのですが、イメージ的には建物が建ってる状態よりも

 

真っ新な状態の敷地の方が広く感じそうですが、意外と工事が進んだ方が広く感じるんです。

 

不思議です。

 

 

 

:雨男nishizawa:

 

 

 

 

 

 

 

 

5月の連休は大体時間をもてあます。

 

伊勢に行こうという事になった。

 

ならば名古屋で堀口捨己設計の「八勝館」をみたいという事になり、予約をいれると

30日は茶会で貸切、1日は休みとの事。

前回と同じこととなり、残念ながらそっちは断念――。

 

 

神宮は雨だった。

3月の出雲も雪で、何か祟られている。

 

前回もそうだったが、神宮を歩いていると、何かオーラを感じる。

気のせいだろうか。

 

千数百年の間、年1500回も祭り事を行っている。

大変なことである。

来年10月の式年遷宮に向けて「せんぐう館」も、つい最近完成していた。

 

ところで、神宮の神楽殿は大江宏先生の設計である。

倉田研究室時代に机を共にした1年後輩の熊田が担当した。

建築家はどんな建物でも設計できるように訓練されていると思うが、

こういった建物は別次元である。

全く世界が違うと言ってよい。

熊田もよくまとめたものだ。

 

熊田はこの後「国立能楽堂」も担当している。

彼は、ずっと以前に早世した。

 

 

内宮はひどい雨だった。

次の日も伊勢、鳥羽は1日雨との事だったので

京都へ行くことにした。

 

早々に旅館をチェックアウトして、近鉄で京都に向かった。

車窓からの新緑がすがすがしい。

民家の屋根はほとんどが、いぶし銀に輝いた瓦が葺かれ

入母屋、寄棟、切妻で構成されている。

まさに決まりごとのように――美しい。

 

京都には昼ごろに着き、そのまま詩仙堂に向かう。

案の定、ツツジが満開だった。

5月末はサツキで庭がいっぱいになり、人も混み合うとの事だった。

感覚的に京都にはサクラは合わないと思っている。

新緑とツツジの赤が強烈に日本の四季を感じさせる。

 

例によって、近くの曼殊院に行ったが、徒歩15分が意外と苦痛…。

そこもツツジがきれいだが帰りも大変なので、次回からはパスしよう。

 

その後、久しぶりに銀閣寺に寄り、もう一泊しようと思ったが

次の日は雨とのことなので、PM600の新幹線で帰京した。

 

 

去年10月に嵐山の方に行ったが、基本的には京都駅を背にして右側の方が好きである。

清水寺、南禅寺、知恩院、銀閣寺、寂光院、三千院……。

次回は、何十年ぶりに三千院に行くことにした。

 

 

車での遠出もいいが、列車もまたいい。

今回も衝動的に直前に決めたのに、旅館も電車のチケットもすぐとれた。

 

 

まだ5日間も休みがある。

 

どうしよう……。

 

:tanno:

 

 

 

 

 

 

 

 

3/11

今、広島にいる。

 

一年前の大震災の時は事務所で4,5人で打合せをしていた――。

 

「お、地震だ」

 

「結構すごいぞ」

 

  ………

 

「逃げる?」

 

「逃げよう!!」

 

ダ―――……

 

 

スリッパのまま道路に飛出した。

上を見ると電柱が揺れ、19階建のマンションまでもグラグラ揺れている。

壊れないのはわかっているが、こんなのみるととても住めない。

 

夕方家に帰ると、妻の友達が来ていた。

神田から歩いてきたとの事だった。

夜、テレビをみていて、「原発だけはよけいだ」と感じた。

 

なんとも言えない気持ちがよみがえってきた。

 

 

和辻哲郎は「風土」の”第二章モンスーン”の中でこう述べている――。

 

 

人間はおのれの生の力をもってその生の根源たる力(生をもたらす湿潤)に対抗することはできぬ。

忍従はここ(モンスーン地帯)では生への忍従である。”

 

 

私は東北人である。

この一年間「受け入れることも拒否することもせず、先祖と子孫のことを思い

ただもくもくと日常を送り、時が過ぎる」ではなかったかと思う。

 

もう一度。

 

「原発だけはよけいだ」

 

 

 

 

 

GA JAPAN 114 で内藤廣、隈研吾、二川幸夫の対談が載っていた。

対談自体は非常に違和感を覚えたが、その中で二川幸夫が「個人的にも被災地の写真なんて撮れないし、今回初めて公の場で3.11についてコメントしている……。」には、非常に共感を覚えた。

 

明日は出雲大社と、槇文彦の島根県立古代出雲歴史博物館をみる。

 

ちょっとたのしみだ。

 

:tanno:

 

 

 

 

 

雪とは・・・。

29

 

 

AM7:30

 

「三宅どうする?」

「迷ってます。」

 

コンクリート打ちである。

 

型枠大工が超不足している時、必死でここまで来たのに

 

”雪”とは……。

 

 

前日、雨に備えてブルーシートで屋根を作り、

 

コンクリート打設に備えていたのに―――。

 

 

AM830

 

「中止します。足場、道路等、危険です。くやしいですね。」

 

みんなの思いだろう。

 

これが現場だ。

 

 

 :tanno:

 

 

 

 

 

「丹野君。前に乗りなさい!」

木村事務所の時代をもうちょっと整理してみよう。

 

木村さんはたぶん、最初慶応大学に入り、建築をやりたくて中退して早稲田に入り直した。

早稲田では村野賞をとり、山下事務所でNHKを担当したと聞いている。

30才前に退社し、アメリカのコロラド大(?)に留学。

30才半ばで帰国し、設計事務所を開設した。

 

私が入った頃は「プラザ新大樹」の工事の最中であった。

木村さんのお父さんは大学の数学の教授で、木村不動産の社長である。

幼稚園のあった明治通りと大久保通りの交差点に確か13階建の複合ビルを建てていた。

Fが「てふてふ」という喫茶店。2Fから森英恵さんの事務所。

Fが木村不動産と木村設計事務所。最上階が木村さんの住居だったと思う。

 

車はセドリックで木村不動産所有だったが、

ほとんどは木村さんが使用していた。

「木村さん。今日出かけます?」

「いや、一日事務所だよ。」

「だったら、川口の中島医院の現場に行くので車貸してください。」

「いいよ」

Tシャツ、ジーパンで、若造が黒塗りのセドリックの後部座席にどんと座って……。

「岡田さん(運転手)川口まで。」

 

「丹野君。前に乗りなさい!」

 

思い出すと冷汗である。

私なら即刻「クビ」にしている。

あくまで、私の若き日の思い出である。

 

そもそも私が木村事務所に入ろうとしたのは「新建築」に発表された「おやじの家」が

ずっと頭に残っていたからである。

なんの変哲もない直方形の寄棟平屋建を南面中程をくり抜いた木造住宅に、

すごいデザインセンスを感じた。

事務所に入ってからも、そのデザインセンスに圧倒され続けた毎日であった。

村野賞、ウィーン国際コンペ3等、ペルージァ国際コンペ1等と、

順調に建築設計の道を歩んでいた人だった。

又、木村さん自身も非常に環境に恵まれた人で、仕事も豊富だった。

お父さんは大変な人格者だった。

ちなみに私の妻は、お父さんの下で働いていた。

退社後、木村さんとは、私の結婚式で会う事となる。

これも色々あったが、書くのをやめる。

 

若くして倒れられ、さぞ無念だったろうと思う――。

 

昔のことをこうやって文章にすると、色々な事が思い出される。

特に自分の建築に対する考え方、当時興味を持っていた建築家、

又、どんな本を読んでいたか、どんな建物をつくろうとしていたか…。

 

ブログも悪くはない。

 

次は25才~30才までの、主に倉田研究室での事がテーマになるが、

書けるかな……。

 

 

:tanno:

 

 

 

 

 

 

本日の杉並荻窪

所員の赤澤です。

 

本日は現場定例会議の日でした。

毎週木曜日には現場事務所にて定例会議を行なっています。

 

設計事務所、現場監督、設備屋さん、電気屋さんで話し合って様々なことを決めていきます。

たまに床暖屋さん、サッシ屋さん、EV屋さんなども参加します。

 

さらに、コーポラティブハウスであり19世帯あるこの杉並荻窪では

各部屋を分担してそれぞれ担当の設計者に室内の設計をお願いしています。

 

そしてもちろん19世帯のお施主さん、コーディネータの方ともお付き合いさせていただいている訳です。

 

 

ひとつの建物をつくるのに実に多くの人と関らせてもらっています。

コーポラの現場を見るということは、すごい出会いです。

人との出会いだけではありません。自分の中の設計という仕事のイメージも日々変わっていきます。

 

 

大学の授業が退屈で、設計なんて魅力のない仕事だなと思っていました。

まともに就活もせずバイトして人生を送っていこうとしていた自分です。

 

出会いのない毎日だったのかもしれません。

 

 

一年半前の話ですが、不思議なほど今と違う自分がいました。

一年後はまた変わっているのかもしれません。

 

 

 

24才現在、そんな感じです。

 

 

 

2Fスラブ打設翌々日
2Fスラブ打設翌々日
一週間後、本日
一週間後、本日

 

 

 

地震後職人さんが不足している中ではありますが、現場は確実に進んでいきます。

 

定例の日に現場に出る度に、変わっていきます。

 

 

 

:akazawa:

 

 

 

 

 

建築家 木村傳

木村傳先生が亡くなった。

78才との事。

木村傳設計事務所は、私が最初に勤めた会社である。

24才前後の約2年間の勤務だった。

 

213日、お通夜に妻と共に行ってきた。

20才前半の事なのでほとんど忘れていると思ったが、

先生の写真、当時のスタッフの顔をみたら鮮明に思い出すことができた。

 

吉田さん、山本さん、児野、悦ちゃん、英子さん

本当に久しぶりだった――。

 

 

振り返ってみると、大学5年目で家から仕送りがなくなり、

竹中工務店でのバイトが始まったのが社会へのスタートだった。

ここで約1年半、建築の基礎をしっかり教わった。

偶然にも席が河西の前で、全く社員同様に扱ってもらった。

 

1月に、「入社するのか」と聞かれ

「いいえ。設計事務所へ行きます。でも、当分置いてください。」

 

8月頃、大学4年の時の課題をもって木村先生に面接されたのが最初の出会いである。

 

木村事務所には10月頃からの勤務だったように思う。

当時、国際コンペの走りで、木村先生はウィーンの国際コンペで三等になり、

ペルージァのコンペの最中だった。(結果1位になった)

 

ものすごく勢いがあり、活気があった。

 

約2年間勤めたが、パイオランドビル、中野邸、中島医院をやらせてもらい、

与野ハウス、暁教育図書本社ビルをやっている頃に恩師である倉田先生に

倉研に来い”という、私にとっての絶対命令で退社した。

 

24才前後で、いろいろな仕事を担当させて頂いた。

今考えると、空恐ろしい事である。

 

わがままな私を、よく広い気持ちで使って頂いた。

 

感謝感謝である。

 

先生が30代という事もあるが、よく食事、飲みに連れて行ってもらった。

九兵衛で寿司までごちそうになった。

 

いろいろな思い出がいっぱいある。

本当に楽しい時間だった。

 

ありがとうございます”

 

 

ご冥福をお祈り申し上げます―――

 

 

:tanno:

 

 

 

 

 

 

 

1階打設

本日の杉並荻窪。

1階壁、2階スラブ打設を行いました。

 

昨日からの雨が続いていてブルーシートを張ってのスタート。

悪天候の中、現場監督も職人さんもおつかれさまでした。

大変な作業でしたが、特に問題もなく順調に進んだと思います。

 

昼前には雨も上がって打設後の心配もなさそうです。

一安心しました。

2階スラブ
2階スラブ
西側道路より
西側道路より

ついに地上に躯体立上がってきました。

 

1年半前、基本設計の図面を描いていたころを思い返すと感慨深いものがあります。

 

 

 

が、まだまだ思い出に浸るには早いので

気合いを入れて引き続き設計監理していこうと思います。

 

 

:akazawa:

 

 

 

 

 

現場を見る

所員の赤澤です。

現在、所長とともに杉並荻窪の現場を見させてもらってます。

 

1年半前にこの事務所に入り、これが始めて見る建築現場で

この現場をやりながら設計という仕事を覚えていってます。

 

 

地下1階、地上5階建ての打放し建物で、それを一層ずつ打設していく訳ですが

(1年半前はそんなことすらよく知りませんでしたが。。)

現在1階のスラブまで完成していて、明日1階壁、2階スラブを打ちます。

 

昨年末、1階スラブの時の打設の様子です。

打設時にはさまざまな業種の職人が集まります。

ポンプ屋さん、土坑屋さん、左官屋さん、大工さんなどが一同に動きます。

コンクリートが固まってくる時間もシビアだし、昼飯も食べずに朝から夕方まで通しの重労働で

ほんとに大変な作業です。

 

 

 

明日はエントランスなど、建物の顔にもなる1階部分の打設です。

緊張します。

 

天気が少し心配です。

 

 

始めて見る現場

ほんとにいい建物をつくりたい。

 

 

:akazawa:

 

 

 

 

 

歳をとった

2月1日AM 945 大音量で”僕には あなたしかいない ああああ ああ~~”

 

沢田研二が流れている。

 

赤澤が歯をみがき、ウッシー(牛田)はヒゲをそっている。

 

久しぶりだ。

 

何か変だ。

 

昔は日常だったけど――。

 

 

大丈夫?”

 

なにが。”

 

夜、コンクリートに思い切り頭ぶつけたよ。うるさかったネ。ベッドからは落ちるし――。”

 

うそ。よくわからない。” 

 

前は「ちょっと遅くなる」はAM 200 過ぎだったのに。歳をとったネ。”

 

今朝の会話である。

 

 

思いおこしてみると、昨日PM 1100 頃「落陽」までで、あとの記憶は全くない。

 

それでもAM 930 に事務所に来た。

 

玄関開けてビックリした。

 

靴が5足もある。

 

みんなグーグーである。

 

 

 

事件が起きた。

 

「神戸」が店を閉めるとのこと。

 

昨日は最終日だった。

 

 

 

気持ちが悪い。   ”続く”

 

 

:tanno:

 

 

 

 

 

素直な人間

ついに西片さんにもらった焼酎を開けた。

「甕ん中(かめんちゅう)」という名で、風貌からなかなか開封できないでいた。

ブランデー、ウィスキーと違って、焼酎はうまいまずいがわからない。

その酒の個性が自分に合うかだと思っていた。

この酒は、少し香りが強い。癖のない上品な味がした。

こういったものをうまい焼酎というのかもしれない。

 

テレビで、たけしの売れない浅草時代をやっていた。

いろんなエピソードをおもしろく見たが、それぐらいのことは私の廻りにごろごろある。

 

大学の1年先輩で河西がいる。

冬でも半袖の茶色のポロシャツで、薄手の赤いジャンパーをいつも着ていた。

同級生の細川はカレーライスをぐちゃぐちゃにして食う奴だったが、

「少し残せ。俺に喰わせろ。」……。

 

河西は学生時代から競馬をやっていた。

日曜日の夕方に返すという約束で、私から5000円をもっていった。

夕方アパートに帰ってみると、机の上にしわくちゃの500円札とメモが置いてあり、

「丹野。人までか、馬までも信じられなくなった。」……。

 

またある時は、「丹野。大事な決定は”判断”してはいけない。”直感”で決めるのだ。

直感こそ自分の存在なんだ。」……。

相当負けたのだろう。

 

競馬に勝つと大体寿司をご馳走してくれた。

中野駅近くの「磯寿司」である。

54巻も食って、「俺は不幸だ。生まれて満腹感を味わった事が一度もない。」……。

 

河西は2000年にガンで死んだ。

葬儀のとき、お姉さんから言われた。

「秀幸からの伝言です。”俺が死んだらパァーっとやってくれ”」

まったく彼らしい。

私にしてみれば、「金くらい置いていけ」だ。

 

河西のことは今でも時々頭をよぎる。

竹中工務店に勤務していたが、会社が終わったらKUTで社長をやるつもりだったはずである。

自分に正直で素敵な奴だった。

河西に関してはいくらでもこういった話があるが、キリがないので”続く”としよう。

先日、友人の美礼ちゃんに遅い年賀状をもらった。

30日にミレンダ荘へ行って正月を過ごすとのことだった。

ミレンダ荘とは、20数年前に私が設計した、岩手県八幡平にある彼女の別荘である。

61才で運転免許をとって、別荘と東京を車で行き来しているという。

東京生まれの東京育ちが雪の多い厳寒の岩手の山で過ごすこと自体おどろきだが、

「車は四駆なの?」と聞いたら、「四駆って何?私の車はワーゲンよ」ときた。

 

ミレンダ荘は、設計料はタダでいいから、たまには使わせてということで作った。

10年位前に増築と風呂の改修を行った時を最後に行っていない。

ヒバの風呂がすごい。これも大工の伊藤さんが作ったとのこと。

「伊藤さん、お金ちゃんともらったの?」の問いに、

「私、美礼さんのファンですから。」と。

伊藤さんも今は寝こみがちらしい。

 

美礼ちゃんは感性豊かな、本当に自由で魅力的な女性である。

若いときと変わらない、いや、感性はより進化しているように見える。

去年、庭にピザを焼く釜をつくったとのこと。

今年久しぶりに行ってみよう。

 

時を同じくして、マドリードにいる幼馴染の均(通称ペケ)から手紙が届いた。

11月に日本に来た時のお礼の手紙だった。

ペケは美礼ちゃんの元カレである。

40年位前、4.5帖のペケのアパートで3人で毎週月曜夕方から必ず、鍋をつついていた。

それ以来の友人ということになる。

ペケは26才位のときに、「日本は自分に合わない。スペインに行く。」と言って

マドリードに永住している。

彼は、大学2年のとき休学して2年間、ヨーロッパ,南米,北米と、世界を放浪した経験を持つ。

 

人に限らず、いろいろな事に出会いがある。

その”出会い”が今の自分を形成していると言っても過言ではない。

ただ、すばらしい出会いは、本人が”素直”でなければ出会いにならない。

河西も美礼ちゃんもペケも、本質的に本当に素直な人間である。

 

:tanno:

 

 

 

 

 

 

年末年始

111日三茶現場定例、12日荻窪定例と、新年早々忙しい。

毎週現場定例に出ているが、2件ぐらいが限度かな。

荻窪は、足場がかかり始めた。1Fの配筋の最中である。

現場に立ってみると配筋が非常に自然に見えて、本数、太さのバランスが美しい。

さすが坂寄氏だ。ある意味で足場も美しい。

 

年末年始は毎年同じパターンである。

1228日は、KUTの忘年会。

三が日は、東京にいない。

 

忘年会は河西(KUTK)存命中は有馬記念の前日と決まっていたが、

彼が死んでからは28日と決まっている。

20人くらい。その年に係わった人、新たに出会った人、年に一回しか会わない人…。

会で”今年からブログを書くぞ!実名入りだぞ!”といったら大学からの友人の星野から、

誰がみてるかわからないから、くだらん事書くんじゃないぞと言われた。

まぁ、自分の気持ち、考えを整理するという気楽な思いである。

忘年会は三次会までいったが、非常に楽しかった。

もう30年くらい続いているかな?

 

今年の三が日は西伊豆で、長八美術館に行ってみた。

全国の腕利き左官職人が集まったという事だけで、壁にその思いが伝わってくるものがあった。

左官に限らず、建築に係わる腕の良い職人はそうとう減っているのだろうな…。

現場も昔と違って、乾いた関係になっているし、技を追求するという事は

もうあまりないのかな…。

時代の流れということにしよう。

3日に土肥からフェリーで清水港に行き、そこから東名で帰った。

富士山が満喫できたが、妻に言わせると”山梨側と静岡側では、富士山の見え方が

まったく違う。静岡側の方がいいね”ということだった。

 

話はブログに戻るが、昨日家で酒を飲んでいて、息子とブログの話になった。

”ブログって、人の多い通りを大声を出して歩くのと変わらないんだよ”と言われた。

だからやめろとは言われなかった。

たぶん、いつかは人に不快感を与えたりするかもしれないよという意味なんだろうな。

 

 

:tanno:

 

 

 

 

 

あけまして、おめでとうございます

誰が考えたのか、いつからなのかわからないが、1年に正月とお盆をもうけて

まとまった休みをとるという制度,習慣は賢いなと思う。

 

年の初めにあたって、東北大震災と原発事故について考えてみよう。

 

津波に関しては、太古の時代から出会ってきた事柄だから、今後は多少の対策と、

あとは経験を活かして逃げればよい。(H-15Mの防波堤なんてとんでもない)

問題は原発事故である。

使用済燃料棒の行き先も考えずに、なんとかなるという思いで相当数の原発を

つくってきたのが現実である。

 

これほどの人類に関わる人為的な、将来も危ぶまれる事故に対し、

今いろいろなことが明るみになりつつある。

情報を隠す。放置して逃げる。数値は本当に正しいのか。対策は本当に適正なのか…。

 

単なる原発事故だけなら、東北大震災でみせた人々の助け合うすばらしさを見ていると、

時間をかければ解決するだろう。

問題は原発事故の対応、その後の過程で”人間の本性”を白日のもとに晒したということである。

 

人間は、知恵を出し合い助け合いみんなで生きるというすばらしさと、

ずる賢い自分のことしか考えない非常にいい加減な動物であることがはっきりした。

 

人間は価値基準を最終的には”人間としてどうか”という考えで生きてきた動物だと思っていた。

原発事故はまさに”人として”という価値観を消しかねない事件だと言わざるを得ない。

昔人間は神を殺し、今度はひょっとして、ひとを殺そうとしているのかな?

 

建築は”人間”を対象とした”学問”であると先生に教わった。

そこには”ユートピアとは何ぞや”という問いかけがあった。

 

人間の人としての根本が揺らぐと、オリンピック,芸術…すべてが”虚構”となる。

 

今世界を、地球を支配しているのは、おろかな人間がつくりあげた”システム”かもしれない。

オバマも胡錦濤もプーチンも、大きなことは何も決定できない。

巨大なシステムのオバケ(神)が勝手に歩いている。

人間としての選択肢なんて、ほとんどないのかもしれない。

 

新年早々こんなブログになった。

いやな年明けである。

 

正月もお盆も単なる長い休み、ということになるのかな……。

 

よい年になりますように―――。

 

:tanno:

 


2011

企画とはなんぞや

杉並荻窪コーポラティブハウスの地下立上りの配筋検査で久しぶりに

坂寄氏に会い昼、本むら庵でそばを食べながら話をした。

相変わらず超多忙のようだ。

 

東北の災害の話になり、津波対策の案を被災した行政に送ったが、

なしのつぶてだったらしい。ただ、その案がおもしろい。

工事費が0円でできる案とのこと。内容としては、日本列島太平洋側は

基本的に南東向きなので、海岸線に沿って斜めの防波堤を築くというもの。

その後がおもしろい。その防波堤の斜めの壁を電力会社に1200円/㎡で貸す。

そこにソーラーパネルを貼っつけるという案らしい。

 

実におもしろい。

 

企画とはなんぞやということを考えさせられた。

予定通りに進む企画なんて企画といえない。

大阪都構想だって、一歩進めば巨大な壁、また一歩進めば……と、

その都度障害がある。当然それを突破する力が求められる。

 

力強さと洞察力が成功に導く。

最後はデータでも数字でもなく”感性”が決め手となる。

 

 

初めてのブログ。

 

続くかなーーーーーー。

 

考えを文章にするのはさほど大変ではないが、

思いを言葉にするのは大変だな……。

 

よいお年を!

 

:tanno:

 

 

 

 

 

リニューアル!!

フジカラーのCMがTVで流れ始め、2011年の終わりを感じてきた今日この頃

 

いかがお過ごしでしょうか。忘年会はお済ですか?

 

 

さて、

 

年が新たになる前に、一足お先にKUTのホームページが新しくなりました。

 

今回の更新にあたりブログページが新設されましたので、現場やイベントの

 

ことなど、ざっくばらんに書き込んでいこうという意気込みです。

 

ちょくちょく見ていただけたら幸いです。

 

よろしくどうぞ

 

 

:nishizawa: