昔の事を振り返ってみよう

1970年 頃。 大学5年目に入り家からの仕送りも止められ、竹中工務店でとりあえずバイトをしろ。との事、昭和22年山形の農家の長男として生まれる。まだ家長制度が色濃く残っている時代、家を出て、なお卒業できないなんてとんでもない話だった。

2年間、しっかり建築の基礎、業界の事、いろいろ基礎を叩き込まれた。2年目の2月入社を勧められも、設計事務所に行く、ただ決まるまで置いてくれ、という事で辞退。

多分、スタートとしては良かったのかも?  30才まで大手ゼネコンの設計部で、そこでもう一度考えよう。の構想が、設計事務所で生きように。。!

かなり保守的に育てられた。これは72になった今でも残っていると感じる。

 

木村伝設計事務所入社

    中野邸、 中島医院、パイオランドビル、暁教育図書本社ビル、与野ハウスの基本設計を約2年間でこなす。3人のチーフがいたがほとんど木村さんと直でやっていた。

妻(木村さんのお父さんの会社で秘書をやってた〕

に言わせるとかなり生意気だったらしい。まあ25才のあんちゃん。かもね〜?

ある正月開け、倉田さんより、事務所に寄るようにとの連絡。不吉。案の定木村事務所を辞め倉研に来るように!。私にとっては絶対命令。木村さんの下で上手くやっていたのに!

倉研は空気が重い。建築は学問。が色濃い事務所。

4月から倉田研究室勤務。

 

このブログは私が打っている。初めての事。今までは私が文を書き、所員に打たせていたが自分でやってみようと  

 

:tanno: